認知症の誤解、覚えてること/覚えていないこと
たまに聞くんだよね。「認知症になっちゃえば何もわからなくなるんだから本人は楽だよね」って。本当に何もわからなくなるの?認知症ってどうなるの?ってことについて。
近い過去は比較的覚えてない?
よく言われるよね。近い過去っていうのは、
- さっき聞いたこと
- 数週間、数か月前のイレギュラーな出来事
- 数年前のちょっとした出来事
この辺は比較的「覚えてない」「忘れちゃったよ」って言われることなんだけど、本当に覚えてないのかっていうと意外とそうでもなかったりするんだよね…。
そう、「引き出しの開け閉めがしにくくなった」っていう表現にすごく納得するんだけど、「とっさには思い出せないんだけど時折思い出して話し出す」感じなのよ。
近い収納庫から埋めていって、新しい事柄はもう遠い収納庫しかなくなっちゃったのかなぁ。収納場所が遠過ぎてずっと使われずに放置されてた収納庫だから、開け閉めがしにくくなっちゃってるのかなぁ?そう思ったら、まぁそんなもんかって感じ。
思い出しやすい記憶は古い記憶?
古い記憶の方が近場に収納しておいたから、出てきやすいのかしら?と思ったのだけれども、古いからって覚えてるってことではないんだよね。
近い収納庫だから取りに行くのは楽だけど、古いから引き出しはやっぱり開けにくくなってたりして。頻繁に出し入れする記憶は引き出しもこなれてるのかもだけど、そうでない記憶はなかなか難しい。
顕著だったのは前にも書いたけど、子育ての話になった時に今までは「私が子育てしていたころは…」だったのが、最近では「私が子どもの頃は…」に変化したこと。
わが家で子育てを毎日見ているのと同時に、娘たちの行動なんかをよく見ている義母。7姉妹で育った義母は、ここ最近娘たちを見ることで自分が子どもの頃の記憶によくアクセスしてたのかもね。息子はアルバイトで殆ど不在だし。
覚えてないから楽なのか?
楽なのかっていうと、時折つらいように見える。大事なことを忘れていることに気づいた時、認知の低下からくるふがいなさのようなもので、「情けなくて死にたいよ」と口にすることもある。
もちろん身体的能力の低下で思うようにいかずに「情けない」等と口にすることもあるんだけど、認知も同じように苦しいんだなって。
いじめも、子育ても、人間関係は全て言葉一つでガラッと変わることだらけだと思ってるんだけど。義母に対しては「覚えていない」ことを負担に感じるような言葉を使わないようにしてる。
そうでなくても「何も手伝えない、何もかも世話になっている自分」に負い目を感じながら生活している義母に、認知症を認知させるのは心の負担が大き過ぎるかなと思ってる。
義母の認知低下を 旦那も「そうなんだ~」と受け入れるか、「だいぶ昔の事だから俺も忘れてたわ(笑)」と流せるようになった。そうやって少しでも心の負担を和らげることができればと思ってる。